三上 洋
「Dialog in the Dark」――暗闇の中の対話生まれたての赤ん坊なら毎時間、毎日が初体験の連続でしょう。しかし年を重ね成人式、いや成人式を2回、いやいや3回迎えようとする私にとっては、そんなに初体験の機会など巡ってくるものではありません。 ところがこの8月、その私に初体験の機会が巡ってきたのです。それが表題の「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」、直訳すれば「暗闇との対話」です。 手元の資料から抜粋してみますと、「・・・視覚を遮断し、聴覚や触覚など、その他の感覚で真っ暗な空間の中を進む、「対話型空間プロジェクト」です。光の全く差し込まない真っ暗な空間ですから参加者が自由に歩き回ることは不可能です。そこで、視覚障害を持つアテンド(attend=伴う)スタッフに、その中を案内してもらいます。 ・・・健常者と障害者との「助け=助けられる」という関係が、一瞬逆転し、新しい関係が生まれます。・・・このプロジェクトは不自由さを体験する障害者疑似体験ではありません。それよりは人間の尊厳と可能性に気づくためのプロジェクトといえるかもしれません。」 さて本論に入りましょう。普段皆さんがアイマスクをしたり目をつぶったりしても、いくらかは明かりが漏れてくるかもしれません。ましてや目を開けても同じ暗闇などという経験はめったにできないでしょう。今回のイベントはまさにその目を開けても閉じてもかわらない暗闇なのです。 神戸はポートアイランド、中埠頭駅近くのジーベック・ホール。そのホールに目張りをし真っ暗な空間を作り上げたのです。時間帯によって日のさす角度が変わったり、お客さんの持ち物で暗くなると光るものもありますから、暗闇を作るのはそうたやすいことではありません。 開催日は8月17日〜24日の8日間、朝10時から夕方6時半まで30分間隔の15ユニット、1ユニット7人までの枠内で、インターネットでの完全予約制で募集が始まりました。前売り大人3500円、学生2500円とけっして安くはない料金なのに数日中に完売! いよいよ8月17日、開催初日がやってきました。 別の係に簡単な白杖操作などの説明を受けたお客さんが、「前室」と呼ばれる薄暗い部屋で、私たちアテンドと出会います。お互いに簡単な自己紹介を交わした後、扉は開かれます。 事前にアテンドやバー・スタッフとして研修を受けた私たちが、真っ暗な会場を、「こちらです。もう2、3歩前へどうぞ」と声を掛けながら、7人の目の見えるお客さんと「暗闇ツアー」に出かけるのです。足元に枯れ草の山があっても、ガイドするのではなく気づいてもらうのです。 「あっ枯葉がある」と言われれば、「しゃがんで触ってみて。匂いを嗅いでみたら?」という具合です。 こうして橋を渡り、川の水に触れ、駅ホームを昇り降りし、公園で二人乗りブランコに乗り・・・、最後はバーでお好みのドリンクを飲んでくつろいでいただきます。お客さんの耳元でワインの栓を抜きグラスに注ぐと、「見えている方がやってるんですか?」 「いえ、見えたらこんなことはできません。目の見えない人間だからこの暗闇の中でもできるんです。」・なかなか痛快でした。 提唱者はドイツのハイネッケ博士。日本では消防法の関係でなかなか開催にこ ぎつけず、1999年に初めて東京で開催、その後各地で開かれるようになりま した。今回のジーベック・ホールは2000年開催後、5年ぶりに同じ会場で催され たのでした。 参考■ダイアログ・イン・ザ・ダーク 「Dialog in the Dark」――暗闇の中の対話。1980年代の終わりに、ドイツで始まったこのワークショップ形式の展覧会は、その題名の通り、漆黒の暗闇の中を歩きながら様々な体験をおこなうというもので、欧州の各都市で開催され、すでに100万人以上の体験者がいる。ドイツでは、メルツェデスベンツ社がトップマネジメント向けの研修プログラムとしても採用しているという。 Dialog in the Dark(DID)は、健常者の思いこみを一掃する。暗闇の中で、障害と健常は逆転する。見えないということは、確かに最初はこわい。しかし、しばらくすれば、視覚以外の感覚が甦ってくる。体じゅうのアンテナを張って、気配を感じる力が戻ってくるのを待つ。足の裏が点字ブロックを感じ、指先が携帯電話の凸を認識し、香りや味がいつもよりはるかに敏感になっているのを感じとる。見えない世界というものが、考えていたよりも、はるかに深く、美しく、豊かなものであることに気づく。 闇の中で、先導役を務める視覚障害者は、参加者の声を聞き分け、声で一時障害者である参加者を誘導する。触覚の豊かさを教え、聴覚で世界を聞き分ける世界を知らせる。 参加者は、先導者が障害者であることを忘れる。闇の中のナビゲーターとして自分よりはるかに気配や音を感じる能力を尊敬する。生まれて初めて、障害ではなく、その能力に気づくのだ。 DIDを経験した人は、例外なく、障害者を一人の人間として見るようになる。もう、「かわいそう」とは思わない。たしかに不便な場合もあるだろう。でも、障害とはそれですべてができなくなるわけではなく、機能を補うことができれば、能力を発揮できる人々なのだと体で理解している。 街やものの中に、さりげなく埋めこまれた機能や、配慮された使い勝手があれば、障害者は障害者でなくなるかもしれない。ある部分、健常者より感覚が鋭いのだから。DIDは、まちづくりやものづくりにかかわる人々、デザインを学ぶ学生など、さまざまな人に、ユニバーサルデザインを理解してもらうための、最も有効なプログラムである。 |
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